令和6年1月11日

山城雅昭

浜通り手ほどき腎臓病を考える会

山城雅昭の後悔の自伝

 この度は私の透析に至りました後悔と今後の夢について、つたない内容をお伝えさせていただきますこと誠にありがとうございます。

 私は、昭和18年(1943年)に中国東北部、当時満州国(私と同じ年齢の方はご存じでしょうが、日本が占領していた中国の東北、現在のロシアとの国境に接してる)で広島生まれの父親が満州鉄道、母親が隣原町生まれで叔父の事業応援で行っていたときに結婚して3男として生まれました。

 昭和20年に敗戦となりましたが、父親の仕事の関係で1年遅れて両親と兄弟5人、おふくろのお腹にさらに6番目の男の子と冷たい船底に乗って帰国しました。私は船に乗ったことでハシャイデいたそうですが、おふくろは大変だったそうです。

 福岡県に上陸し、列車で原発投下後1年の広島駅で乗り換え、国鉄芸備線で島根県との県境近くの父親の里西城町に皆リュックサックに手荷物状態で今でいう移住したものです。

帰国後は、父親の本家からさらに山奥のわずかの田畑をいただき、両親と兄弟6人が自給自足に近い生活で、今の若方々には想像もつかない、食べるものに事欠き本当に苦労いたしました。

さて高校を決めるとき私は、将来は世界に打って出たいと船乗りのなろうと思い商船関係学校を望みましたが、背の高さが当時1m50pなくあきらめ、当時大人の雑誌に建築家がヒーロー的な物語があり、建築科のある工業高等学校に入学しました。高校の学費は両親だけでは足りず兄・姉にもだしてもらう状態でしたから、大学は当然あきらめなければなりませんでした。

でも、スーパーゼネコンに入社でき、東京の管轄に所属し、今世間を騒がしている裏金作りで大変な永田町の自民党本部の建築を担当しました。60歳の定年までには30件以上の建築物を作りました。ボーリング場、マンション、テレビ局、病院、養護施設、事務所、学校、保養所、製鉄所とほとんどの種類の建築物をやりました。

大変だったのは、今はコンクリートの打ち込みにはポンプ車といいブームが伸び簡単にできますが、当時は2輪車を人力でわずかな量を蟻のようなありさまで打ち込みが夜になることもありました。コンクリートの打ち込みは、建築工事の大イベントでしたので、打ち込み完了時は必ず祝宴をやったものです。
また建築現場の宿舎に泊まることも多く、今でも見かけますが袋入りのラーメンに野菜や甘党の砂糖を調味料に追加して食べたものです。そんなことも今回の透析につながったのかもしれません。

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